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「北朝鮮の核ミサイル、米攻撃可能=国防総省局長が議会証言」
2005年04月29日、時事通信 国防総省局長は、北朝鮮は米国を直撃できる二段式の大陸間弾道ミサイルも、能力の範囲内と語った。 北朝鮮は使用済み核燃料の再処理を開始しており、これによって核爆弾6個分のプルトニウムを製造できるとの見方が出ている。 ・・・ いよいよ物騒な話になってきた。 現在のボタン戦争では、双方が第1撃を考えるため、あっという間に開戦となる可能性がある。 1962年のキューバ危機では、ミサイルの発見からわずか2週間で核戦争の1歩手前まで行ってしまった。 1962年10月のキューバ危機(1)最初の1週間 10月14日: 米国のスパイ偵察機U-2がキューバ・ハバナ西方でいくつかのSS-4ミサイルを発見。 (SS-4を使用するとワシントンまでが射程距離1300マイル内となる。) 10月15日: SS-4の2倍の射程距離のSS-5基地を発見。 (SS-5は射程距離2600マイル、全米がほぼ射程範囲内となる。) 10月16日: US政府は奇襲作戦も検討。「パールハーバだ。!」 米国が攻撃すればソ連、EUを巻き込み「第3次世界大戦の危機」となる。 10月19日: U-2の航空写真で8台の発射台と16ミサイルを発見。 10月20日: ケネディはキューバへの完全な軍事的遮断を命令。183艦船と8機が使われた。 またミサイル基地への空爆と上陸を承認、549機の戦闘機、4万人の海兵、空爆部隊がスタンバイ。 一方、キューバのSS-4発射台が発射可能になる。 つづく #
by fumihdai
| 2005-05-01 22:30
| ブログ小説
反日運動のさなかで中国旅行は危険だと言うアドバイスもあったが、西安へ出かけた。
中国の悪人はケタが外れている。始皇帝は13才で秦の王位につき、史上最初の統一帝国である秦の初代皇帝になった(在位 前221-210)。 その後、紀元前230年から9年間で韓、趙、魏、楚、燕、斉の6ケ国を征服した。 征服することで被征服者や捕虜を奴隷の如く土木事業に従事させ、富を蓄積し、それが枯渇すると矛先を次の征服地に向けた。 そうして築造した土木事業は、かの万里の長城、兵馬俑、陵墓、贅沢な何百と言う離宮別館を含み、被征服者と農民をこれらの建設に従事させた。労働者、死者は何十万という規模であったであろうと思われる。 加えて自己の都合の悪い人物を情け容赦なく殺害した。実父呂、実弟2人を殺し、焚書坑儒では一度に460人を生き埋めにし、書物を焼き払った。 郭沫若によると、始皇帝は、地方巡遊を終え咸陽(現在の西安)に戻る途中で癲癇(結核性脳膜炎)をおこした。そして暗殺された。50歳であった。 fumihdaiの写真ブログ 参考: 郭沫若著「歴史小品 始皇帝の臨終」岩波文庫 #
by fumihdai
| 2005-04-29 21:16
| ブログ小説
クルーズ船はキーウエストの港からマイアミへの帰路についた。
飛魚が銀色の翼を光らせて船側を並走する。 夕日が空を染めて沈んでいく。 海は紫から濃紺へと変化していく。 ・・・ ここで乗船したクルーズ船のデータを紹介しておきます。: Majesty of the Seas RoyalCaribbean 社所属 処女航海: 1992年4月26日 乗員定員: 2,744人 グロストン: 73,941 船長: 880' ビーム: 106' ドラフト: 25' 巡航速度: 19 ノット サービス・スタッフ:827人 内部には1050人収容の劇場、675人収容のラウンジ、650人収容のミカド・ダイニングルームなど多数のホール、バーがある。 船は出発地のマイアミに着岸した。 さあ下船です。 下船の前に、チップをお忘れなく。 客室マネジャ、客室担当者、食堂マネジャ、食堂担当者、総括マネジャの最低5人分ですよ。 カリブの「ラ・マル(海)」とサービスに感謝をこめて! #
by fumihdai
| 2005-04-27 06:38
| ブログ小説
ベルリン郊外ポツダムにあるツェチーリエンホフ城(Schloss Cecilienhof)で、ポツダム会談が行われた。
第2次世界大戦末期、1945年7月17日から8月2日にかけてチャーチル、トルーマン、スターリンの3巨頭が会談し、対日最後通牒であるポツダム宣言がなされた。 当時ベルリンは連合軍による空爆で完全に廃墟になっており、市内には会談を行う場所が無かった。そこで郊外のこの城が選ばれたのであった。 会談では米、英、ソ連の交渉団が城の3つの翼を占有し使用した。 ツェチーリエンホフ城はプロシャ王でありドイツ皇帝であったウィルヘルム2世が1917年皇太子ウィリアムとその妻ツェチーリエのために作った。 ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、英国に対抗し陸海軍の兵力を拡張、1914年第1次世界大戦を起こした。1918年に敗戦し、退位しオランダに逃亡した。皇太子も王位を継承せず、ホーエンツオレルン王朝(プロイセン王家、ドイツ皇帝を兼ねる。)の支配もこれで終わった。 いわばこの城は同家の最後の遺産である。 現在は世界遺産になっている。 湖畔に建ち、自然の景観に合うよう煉瓦と木造でできている。176室ある。 #
by fumihdai
| 2005-04-26 12:56
| ブログ小説
フロリダ・キーウエストには33代アメリカ大統領(1945-1953)ハリー・トルーマンが在任中に好んで過ごした別邸がある。
「リトル・ホワイトハウス」と言われる。 大統領の別邸と言っても決して豪邸ではないが、いかにも居心地の良い邸宅である。 トルーマンはポツダム宣言に署名し、日本への原子爆弾投下を実行した。 対日戦争に勝利し、地元民、軍関係者の歓迎を受け市内をパレードをした。 1945年4月、対日戦争のさなかルーズベルト大統領が急死し、当時副大統領だったハリー・トルーマンは急遽大統領に就任した。 彼は副大統領とはいえ、ルーズベルトから戦争についてはほとんど聞いていなかった。 何から取り掛かるべきか、かなり戸惑った風がうかがえる。 幸いなのは4月30日、ヒットラーが自決し、5月2日にベルリンが陥落したことだ。残るは日本。 ・・・ 1945年7月8日トルーマンは戦艦オーガストでニューポートからポツダムに向け出発した。(沖縄はすでに落ちていた。) 彼は航空機で行くことを主張したが、安全性を考え戦艦に変えた。 彼は1945年7月15日ベルギーのアントワープで下船、 そこからベルリン郊外のポツダムへはC54輸送機「聖なる牛」で飛んだ。 会談の会場は元ドイツ皇帝皇太子の館だった。 1945年7月20日、チャーチル、トルーマン、スターリンの3巨頭によるポツダム会談が始まった。 1945年7月21日、トルーマンは原子爆弾完成について本国からレポートを受け取った。 1945年7月24日、席上、トルーマンはスターリンに日本へ強力な爆弾を投下することを知らせた。 チャーチルによるとスターリンの反応はこうだった。: 「新しい爆弾だって!」 「もの凄い爆発力だって!」 「日本の戦争で決定的だって!」 「それは良い!」 スターリンは原子爆弾については知らない様子だった。 1945年7月26日、日本への最後通牒(ポツダム宣言)が採択され、日本への最後通牒に署名した。 日本はこのポツダムでの最後通牒を即座に拒否した。 6月には沖縄は多大な犠牲を出して落ちていたが、この機に至っても本土決戦と叫んでいた。(総理大臣鈴木貫太郎。開戦責任者の東条英機は1944年7月サイパン陥落時に辞職させられていた。) トルーマンは原子爆弾投下を決断した。 1945年8月6日原子爆弾が広島に投下された。 その直後にトルーマンは原爆投下の発表をした。: 「日本はパールハーバーで戦争を始めたが、彼らは何倍にもして償わされた。」 「この爆弾は T.N.T. 爆弾2万トン以上の力をもち、英国で最大のグランド・スラム爆弾の2000倍の爆発力を持つ。」 「原爆の製造には、ピーク時従業員が125,000 人に及んだ。」 「歴史上最大の科学的ギャンブルに我々は20億ドルを費やし、そして勝った。」 「もし彼らが我々の降伏条件を受けなければ、更に未曾有の破壊を受けるだろう。」 これが原子爆弾成功の最初のパブリック・アナウンスメントであった。 1945年8月9日、ソ連、日本に戦争布告。 同日、長崎に原爆投下。 2度目の原爆に関する演説では、: 「広島への原爆は単に警告だった。もし降伏しなければ更に空爆を受けるだろう。完全に日本の力を破壊するまで。」 1945年8月10日、日本は連合国に降伏の提案を行った。 トルーマンは更なる原爆投下を中止した。 トルーマンの日記「日本は天皇を護持したいと希望している。我々は無条件降伏だ。どう護持するのか、我々は条件は付ける。」 1945年8月11日、米国は降伏に関するカウンター提案を行う。 1945年8月14日、日本はカウンター提案を受理し終戦した。 ・・・ 年が明けて1946年1月5日の日記には、 「当時はロシアの対日戦争への参戦を希望したが、それ以降ロシアは我々の頭痛のタネだ。」と書いた。 ソ連との冷戦は早くも始まっていた。 ・・・ キーウエストの別邸リトル・ホワイトハウスでの休養だけは、トルーマンにとって居心地の良いものだった。 ハリー・トルーマンの日記 #
by fumihdai
| 2005-04-25 08:47
| ブログ小説
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